防衛大臣から初めて出た現実論

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ミサイル破片被害は容認 河野防衛相』というタイトルで、河野太郎防衛大臣の記者会見のコメントが報道されていた。『地上配備型迎撃ミサイルパトリオット(PAC3)の迎撃後に破片が落下した場合、被害を容認する考えを示した。』との発言の意味するところは、多くの国民を守るためには、多少の犠牲はやむを得ないということであることは周知であろう。

 自衛隊が軍隊であれば軍は国を守るためのものであり、その目的遂行のために戦略戦術を常日頃から練っている組織であり、当たり前の発想である。ミサイル迎撃は直接被弾した場合と迎撃した場合の国全体の被害の大きさや影響を天秤にかけ決定されるものであるから当然の帰結である。さらに、ある程度の犠牲は容認する一方で、当然のことながら被害は最小であるべきと考え、銃後の守りとしての医療体制が整えられている。

 ではなぜ、今回このような防衛大臣の記者会見が大きな見出しになるのであろうか?我国では自衛隊は軍隊として容認されていないことに尽きると思われる。軍人は『殺傷』という法的にも倫理的にも許されざる行為を行わざるを得ず、その彼らのために憲法以外に軍法が存在し、その制限下に戦闘行為が行われている。軍法は活動を制限する一方、軍人を守っている。法体系的にも自衛隊の軍隊としての法律はなく、その意味では自衛隊は『軍』としての活動は不可であり、いわゆる『軍隊』ではない。

 法体系だけではなく、現在の自衛隊を鑑みるに、綺麗ごとではない防衛意識はあるのか?多数のために少数の犠牲はやむを得ない等の軍族としての国を守る強い信念はあるのか?災害派遣という親しみやすい部分だけを見せて、本来の目的は防衛のためなら殺傷行為も厭わない恐ろしい存在でもあることを国民に知らせているか?等、憲法改正の前に『軍隊』であるという自らの意識・国民の意識が低すぎる。さらに、戦うことを前提としてこなかったために、あまりにも戦傷医療体制が貧弱である。

 今回の河野太郎防衛大臣の発言は、自衛隊が軍としての存在である一面を初めて国民に向かって発したことに大きな意義がある。これを機に自衛隊の本来の設立意義を改めて考える一歩になればと思う。自衛隊はいつまでも『戦争ごっこ』をしている時代ではない。

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