敵基地攻撃能力の保有の目的は「抑止」ではなく、「抑止力」を持つこと

 敵基地攻撃能力についは、国会議員や専門家の一部から「今の時代は発射台付き車両(TEL)からミサイルを射出するわけで、動かない基地を攻撃したところで抑止できるのか?」と問題提起されている。Preparing for the future of combat casualty careによれば、仮想敵国であるロシア、中国、北朝鮮、イランの長距離精密ミサイルは想像以上に高性能であり、発射されれば甚大な被害が及ぶことは周知であり、しかも100%の迎撃は困難とされている。従って、我国が敵基地攻撃能力を持ったとしても実際にミサイルが発射されれば「抑止」することは困難であり、「抑止」を求めて敵基地攻撃能力を整備しても十分な効果は得られないのは当然である。

 敵基地攻撃能力を持つ最大の意義は敵の攻撃の「抑止」ではなく、敵にミサイルを撃たせないように敵と同等以上の攻撃力を持つことにより敵に攻撃を思い留まらせる「抑止力」を持つことである。防衛を論じる際には「抑止すること」と「抑止力を持つこと」とは区別して語る必要である。一部の議員や専門家は「抑止」することと「抑止力」を持つことを区別しないでの発言が目立ち、結果として国民に混乱をもたらせている。

 抑止力には攻撃的抑止力と防衛的抑止力がある。しかし、我国は憲法により現状では防衛的抑止力(積極的防衛・受動的防衛)しか整備されていない。新たに我国が従来認められていない攻撃的抑止力を持つとするなら、最近の混沌とした世界情勢の中で従来の路線上の防衛的抑止力では対応しきれない想定が現実化する可能性が著しく高くなってきた結果、攻撃的抑止力の必要性が生まれてきたということを多くの国民に知らせ理解を得た上で納得してもらう必要がある。

 さらに敵基地攻撃能力を持てば敵のミサイル攻撃対象目標になることは周知である。敵のミサイルは一旦発射されればその破壊力の結果、敵の攻撃の対象となる敵基地攻撃能力を持つ基地周辺は人・物・制度・組織・機関などが著しい破壊を受け、機能が低下し、作業が制限された状況、すなわち、 Preparing for the future of combat casualty careに記載されている CDO( contested, degraded, or operationally limited )環境に陥る。被害が甚大広範であるため反撃体制を整えるためにはその地域社会全体の対応能力の向上が必要である。そのためには、situation awareness(状況評価)が重要であり、かつ、その概略をその地域に説明し(防衛上実害のない範囲で)、協力を仰がねならない。このような観点から、敵基地攻撃能力を持つことに賛同する人達の説明が著しく不足しているため、国民の不安が払しょくされないままである。

 中国と米国の冷戦を始めとした混沌とした世界情勢の中、日本だけが世界情勢と無関係に安定した平和を享受できる時代ではないことを多くの国民は知っている。その国民に対する真摯な説明も無いばかりか、「抑止」と「抑止力」の区別もしないで騒いでいる議員ばかりの現状ではこの国は危ういというべきなのであろう。

今こそ、新型コロナウィルス感染症類型を変えることを議論する時

 2022年1月5日日刊ゲンダイDIGITALに『安倍元首相が新年早々「コロナ5類扱い」発言 医療崩壊の“元凶”また政権に口出しで批判噴出』が載った。抜粋すると『感染症法上の分類を「季節性インフルエンザと同じ『5類』として扱う手はあります」と発言。そうなれば、たとえ感染しても日常生活の制約はほぼなくなるが、医療費の公費負担もナシ。国民は「自助」を強いられる。そもそも度重なるコロナ失策で求心力を失い、2度目の政権ブン投げに追い込まれる大失態を演じたのはお忘れのようだ。新年早々、安倍元首相が吠えたのはアベ寄りで知られる読売新聞のインタビュー(1日付と3日付朝刊の全2回)。新型コロナは「指定感染症」に分類され、SARS(重症急性呼吸器症候群)などと同等の2類相当の措置が取られている。そのため、医療機関や保健所の負担軽減を理由にし岸田政権に対し、「今年はさらに踏み込み、新型コロナの法律上の位置付けを変更してはどうか」と提言。こう続けた。「入院治療が原則で、医療機関や保健所の負担は大きい。感染の仕組みが次第に解明され、昨年末には飲み薬も承認されました。オミクロン株への警戒は必要ですが、薬やワクチンで重症化を防げるならば、新型コロナを季節性インフルエンザと同じ『5類』として扱う手はあります」そもそも、医療崩壊の原因は安倍政権下で始まった病床数の削減だ。医療費削減を理由に25年時点で最大20万床削減を目指し、自宅療養を推し進めてきた。安倍元首相の「5類発言」は、〈お前は出てこなくていい〉〈政権を投げ出したクズが口出すな〉などとネット上でも批判されている。』

 記事は安倍批判一色であるが、政治的、感情的バイアスを除いて、今こそ、真摯に医学的に新型コロナ感染症の感染症類型を考える必要があると思われる。それには今まで集積した疫学に基づく手法が望まれる。

 NHKのデータによれば、国内の感染者数_1日ごとの発表数と国内の死者数_1日ごとの発表数に関して、2020年1月6日からの日々の推移をまとめると以下のグラフになる。2021年1月6日は国内感染者4,475名/日、死亡者1名/1日であり、昨年同月同日の 国内感染者6,049名/日、死亡者65名/1日 に比して明らかに死亡者が少ない。

 さらにNHKのデータでは重症も減少している。さらにオミクロン株では市中感染の拡大が認められ、感染者の集団隔離よりも非感染者の予防策(うがい、手洗い、マスク)がより効果的と考えられる時期に移行している。

 厚労省によれば、『例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1000万人いると言われています。国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214(2001年)~1818(2005年)人です。また、直接的及び間接的にインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する超過死亡概念というものがあり、この推計によりインフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されています。』まだ、疫学調査が不十分ではあるが、オミクロン株はインフルエンザと同様な傾向ではないのだろうか?少なくとも死亡率はあまり変わらない感じがする。

 感染者数、死亡数の推移、重症者数、市中感染の拡大などから見た場合、安倍元総理の発言が突拍子もないものとは必ずしも言い切れないと思うのは私だけであろうか?

 過去の報道でも新型コロナウィルス感染症の2類相当の分類に関しては問題が提起されてきた。いくつか紹介する。毎日新聞 2021/8/26東京朝刊では『新型コロナウイルス感染症は令和2(2020)年1月28日、厚生労働省健康局長名で「指定感染症」(https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000589747.pdf)となっている。いわば「法定伝染病」で、罹患者は隔離せねばならないのが「大原則」です。いま、適切な対策が講じられなかったために、罹患者の数が従来の100倍程度、爆発的に増大し、病院がパンクすることが見えているからといって「指定感染症」が指定でなくなるわけもない。2次感染を予防する適切な設備を持たない、一般家庭に留置して、そこで加療することは、それ自体、同居家族などへの2次感染を作り出す一大要因になりかねません。』、2021年1月8日デイリー新潮では『以前から現場の医師のなかには、2類相当から下げたほうがいいのではないか、という意見があった。私も2020年4月ごろから厚労省の担当官に“新型コロナは2類相当で扱うのに適していないのではないか”と話していました。致死率を考えると高齢者にはインフルエンザ以上でも、若い人にとってはインフル相当かそれ以下。SARSやMERSと同レベルに扱うのは違うと思う。2類相当は原則入院も強制ですが、それが必要な疾患ではないし、現実問題として重症者が増え、入院は重症化リスクが高い人に絞る必要がある点からも、2類相当とするのは違うでしょう・・(中略)・・・8月28日、当時の安倍晋三総理は2類相当を見直すと明言した。実現していれば、逼迫する医療にこれほど慌てなかっただろう。だが、感染者数という数字が増え、批判されるのを恐れたか、菅義偉総理は前総理の約束を反故にした。そして、やはり感染者数が増えると「人命軽視だ」と非難される専門家と歩調を合わせ、「2類を見直す」という声をタブー視し、悲痛な正論を述べる医師を孤立無援に追い込む。政治家も専門家も、総理の著書にあるように「覚悟」をもって、多くの国民の命を守るために、本当に必要なことに目を向けてほしいが、現に見えるのは、ウイルスより醜い人間のエゴイズムである。』、2020年3月1日医事新報では、『この感染症の診断はPCR検査によって行われている。PCR検査は感度については良好であるが、鼻咽頭粘膜などの検体採取部にウイルスが存在しない場合、感度をいくら上げても陰性と出る可能性が大きい。そのため検査陽性の場合は感染ありと断定できるが、陰性の場合は信用ができない可能性がある。PCR検査を希望者全員に行うことは感染者の数を著しく増やすことにつながると考えられる。この場合、無症状や軽度の症状の人もまとめて新型コロナウイルス感染症と診断されるので、指定感染症である以上、原則的には入院隔離措置が執られることになる。そうすると、感染症指定医療機関ではない一般の医療施設でも入院させざるを得ない状況になり、逆に院内感染を拡大させる可能性が増してくる。いつの日か、本感染症を指定感染症から解除する時がやってくると思われるが、そうなってくれると通常のインフルエンザと同様に軽症の場合は自宅待機を勧めることが可能になり、医療における混乱が生じる可能性は減少する。個人的な意見になるが、これからの1カ月間の感染の動向により新型コロナウイルス感染症への基本方針が大きく変わる可能性が高いと考えている。新規感染者より回復者の方が多くなれば指定感染症の枠から外し、季節性インフルエンザと同じ診療方針で行えばよい。新規感染者がなお回復者を大きく上回っているのであれば、感染ルート探索のために全力を挙げ、個別の調査により感染源を完璧に絶たなければいけない。結果が前者であってほしいと強く望んでいる。』

 毎日感染者数の増加を見て第6波がやってきたとことさらに騒ぐのではなく、疫学調査をしっかりやって、その上で感染症類型を変更していくことが、「with CORONA、コロナとの共存」を目指すために必要であると思われる。

米国本土を守るための北極・亜北極圏の軍事施設の重要性は論じられているが、南極経由の攻撃に対しては?

 Preparing for the future of combat casualty careによれば、米国本土から遠方の治療提供や治療やサプライを促進するための同盟国との安全協定を結ぶと同時に、母国に近い脅威について考える必要がある。長距離精密ミサイル攻撃から米国本土を守るために重要なネットワークは北極・亜北極に位置する基地の集合が枢軸である。米国国防省・国家安全保障省は祖国防衛の主要作戦を維持するため北極の作戦の重要性と持続性に大きな注意を払っている。ロシアはこの地域にたくさんの軍事施設を持っている。一方、米国はアラスカ、グリーンランドに数か所の基地を持ち、同盟国のカナダ、デンマーク、アイスランド、ノルウェイ、スェーデン、フィンランドが北極の作戦支援を行っている。 医療的にも 、北極は気温差、積雪量、乾燥、日照時間などにより、凍傷、脱水、局所的疾病、高山病に対する適切な訓練も必要とされている。以上のように、本書では米国本土防衛のための北極圏の重要性が論じられてきているが、南極経由のミサイル防衛は論じられていない。

 1月2日のSANKEI NEWSに『ミサイル防衛裏かく南極経由も 中国の極超音速兵器』という記事が記載された。「中国が低周回軌道を使った極超音速兵器を標的近くに着弾させたことは、日本に対する米軍の拡大抑止の信用性を傷つけかねない意味を持つ。当初報道されたように標的から約40キロ離れた地点に着弾したのであれば核兵器を搭載しても標的を破壊できない可能性があるが、精密誘導が可能であればピンポイントで「核の脅し」を行うことができ、通常兵器としても運用できることになる。』と指摘している。

 このSANKEI NEWSが真実であればに日本だけではなく、米国も戦略構想を練り直すか、新たな戦略を立てるか、という大きな問題を含んでいる。

台湾有事を医療的支援の面から考える。

玉城沖縄県知事、台湾有事計画「攻撃目標になると危惧」』という記事を読んだ。台湾有事を想定し、自衛隊と米軍が日米共同作戦計画の原案を策定したことに関し、沖縄県の玉城デニー知事は24日、防衛省で鬼木誠防衛副大臣に「台湾の有事で、再び攻撃の目標になることがあってはならないと危惧している。これ以上過剰な基地負担があってはならない」と述べた。これに対して、岸信夫防衛相は同日の閣議後記者会見で、日米間では、2015年改定の防衛協力指針(ガイドライン)に基づき、共同計画の策定や更新をしているとの一般論を説明し、「計画の策定状況や具体的な内容などの詳細は、緊急事態での日米両国の対応に関わることで事柄の性質上差し控える」と明言を避けた、という内容である。

 玉置沖縄知事の発言の発端は、12月23日共同通信社の「台湾有事、南西諸島を米軍拠点に:共同作戦計画の原案策定」という記事らしい。『有事の初動段階で、米海兵隊が鹿児島県から沖縄県の南西諸島に臨時の攻撃用軍事拠点を置くとしており、住民が戦闘に巻き込まれる可能性が高い。年明けの開催が見込まれる外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)で正式な計画策定に向けた作業開始に合意する見通し。23日までに複数の日本政府関係者が証言した。平時は基地建設などはせず、台湾有事の緊迫度が高まった初動段階で自衛隊の支援を受けながら部隊を投入する。米軍の拠点設置には、日本政府の政策決定などの必要がある。』という内容であった。

 Preparing for the future of combat casualty careによれば、米国国防省は起こり得るCDO(contested, degraded, or operationally limited)に対して、米軍が攻撃に耐え回復できることを確実化する軽減作戦や技術に必要な投資をすると同様に、如何に米軍の力と作戦を最良に発揮するかついて考えている。積極的な抑止力、いわゆる敵の攻撃力を封じる役割、としては、例えばパトリオットミサイルの防衛システムがある。一方、受動的防衛手段や積極的防衛手段を通過した敵のミサイルの損害を低下させることも必要である。受動的防衛手段としては爆風や榴散弾から守る固いシュエルター、燃料備蓄の分散、カモフラージュなどがある。いずれにしろ、施設や整備だけではなく貴重な人材(市民も軍人も)が失われ、結果として軍の能力が低下するため、全体の軽減方策では医療支援が重要になっている。イラク、アフガンにおけるRole1から5までの階層的戦傷医療体制ではミサイルによる大量戦傷者には不十分であり、収容能力、治療能力、情報や物資の総量、SurgeについてMTF(medical treatment facility)の向上、医療システムのネットワークに邁進している。医療システムのネットワーク化には同盟国の支援が要点の一つである。各同盟国では部分的支援から全面支援まで支援の程度の温度差はあるにしても対応を求められている。日本も求められていると思うが、その内容は軍事的な支援内容と同様、明らかにされていない。

 将来的な戦争では、直接的に軍力を低下させる軍に対する直接攻撃のみならず、間接的に軍力を低下させる軍のロジスティクスや医療施設も攻撃の対象になる可能性がある。また、直接攻撃に際に反撃に転じるにも医療的な支援は欠かすことができない。台湾有事は確かに台湾が主戦場であるが、台湾有事の際には在日米軍の全体的な作戦になるはずである。米軍の基地は沖縄だけではなく、横田にもあり、日本がどの程度の軍事的、医療的支援を約束しているかにより、台湾有事は沖縄県民だけの話ではない。日本全体の危機として考慮すべき緊喫の課題である。

 

A2AD(anti-access/area denial )threat、 CDO( contested, degraded, or operationally limited)environmentに対応できるCCC(combat casualty care:傷病者治療)体制の構築を急ぐ必要がある。

日本の防衛を論じる人たちに「 Preparing for the Future of Combat Casualty Care: Opportunities to Refine the Military Health System’s Alignment With the National Defense Strategy」を読むことをお勧めしたい。敵の長距離精密ミサイルシステムにより負傷者数増大はもとより戦略戦術も著しく変化した将来の戦闘において、軍隊の戦闘能力維持のために医療システムを見直しをまとめた本である。 戦闘能力を支えるのは人員・人材である。ただ兵器を近代化するのではなく、戦闘前・中・後の医療システムの変革・近代化が必要と説いている。

 中国、ロシア、イラン、北朝鮮の長距離精密ミサイルシステムはかつては想像できなかった数の負傷者が発生するばかりではなく、戦略戦術的にも戦場に展開できる米軍の能力が制限され、また作戦遂行の動きの自由度が制限される脅威が生じる(A2AD)一方、そのような敵の脅威は長時間持続し得ないため、ミサイル一斉射撃によりインフラが破壊された後、防衛共同体はインフラを修復し、機能が低下し制限された環境下(CDO)で戦闘しなければならない。このように戦闘や戦場の環境の変化が将来の戦場の姿である。

ミサイルの脅威に対しては、積極的作戦としてパトリオットミサイル発射台のようなミサイル迎撃システム、受動的作戦として敵のミサイル破壊、核シェルター、燃料タンクの点在などが挙げられる。しかしながら、インフラやロジスティクを守る方法よりももっと広い視点が重要である。砲弾やミサイルは米軍の人材に多大の負傷者を生じ、結果的には米軍の戦力を現他させる。飛行機を維持する格納庫を攻撃するミサイルはスペアパーツ、装備、格納された飛行機、その他の資器材に障害を与えるだけではなく、米軍が戦闘能力を維持するための人材・要員の多大の損害を与える。米軍の作戦遂行能力を維持するのは、彼らに対する医療支援が重要な要素である。この観点から医療体制を見直し、新たなシステムを模索してる状況を語っているのが本書である。

 一部議員の敵地攻撃能力の議論も重要ではあるが、これは後述する軍事的な受動的作戦に過ぎず 、軍事的な積極的・受動的作戦を支えるのは人員・人材であり、防衛医大や医官も含めた真剣な議論が望まれる。

 小児に対する「ワクチンの発症予防効果」をどう判断するか?この記事で小児ワクチン接種は進むのであろうか?

 「米製薬大手ファイザー(Pfizer)は22日、同社が開発した新型コロナウイルスワクチンの5~11歳を対象とした臨床試験(治験)で、90.7%の発症予防効果が示されたと発表した。」という報道があった。「90.7%の発症予防効果」を親御さん達はどう判断し、親として小児ワクチン接種の有無・是非を決定するのだろうか?

 経済行動学から見た人間の意思決定の癖の一つとして「確実性効果と損失回避から成り立つプロスペクト理論」というものがある。客観的確率と主観的確率の間には乖離があって、比較的高い確率のものを主観的にはより低く感じ、比較的低い確率のものをより高く感じてしまう。確率を認識した上で不確実性が伴う意識決定をする際には、確実なものとわずかに不確実なものでは確実なものを好む。また、利得を生じた場合の価値の増え方と損失が生じた場合の価値の減り方は後者の方が大きい。利得と損失の関係を示す曲線が自身の参考点(原点)の右と左で異なり、損失の曲線の傾きが大きいので、損失の場合は少しの損失でも大きく価値を失うことを意味し、損失回避とは利得よりも損失を大きく嫌う。例として千円拾った時と千円落とした時の嬉しさと悲しみを図に描いた。

 

 ワクチンの小児接種について①「ワクチン接種によって100人中90人が新型コロナウィルス感染症に罹患しない」という利得の面に注目させるとワクチン接種を受ける選択肢が高く評価される。しかし、②「ワクチン接種しても100人中10人は新型コロナウィルス感染症に罹患する」という損失の面に注目させるとワクチン接種を受けない選択肢が高くなる。意思決定の際には、注目する面を利益の側に設定するか、損失の側にするか、は非常に大きな影響を及ぼしている(フレーミング効果)。注目する面を利益の側にある場合の選択は「確実性効果(ワクチン接種で90%が罹患しない)」が現れ、損失の側にある場合の選択は「ギャンブル的認知バイアス(ワクチン非接種でも罹患しない可能性が10%もある)」が出る。

 さらに個人では迷うから皆で相談するとどうなるのであろうか?「集団意思決定のリスキーシフト」と呼ばれる現象、つまり、「ほとんどのジレンマ状況では集団で決める方がリスクの高い側に寄る」、が起こる。 この現象は会議でもよく経験することであり、最初は「大丈夫かなあ?」と危ぶんでいても、「声の大きい、威勢のいい発言」に引きずられ、終わってみたらリスクの高い結論に達していたということは日頃からよく経験する。

 このように経済行動学から見た人間の意思決定の特性は非常によく研究されており、我々の通常の消費活動なども操られている面が多々ある。主催者がワクチン接種を推進したいなら利益面に注目するように仕向け、主催者がワクチン接種を進めたくないなら損失面に注目されるよう仕向けられている。 ワクチン賛否議論も、主催者側の賛成・反対の主旨が達成できるように仕組まれていることを念頭に置き、ワクチン賛否議論を見ていく必要がある。

 第17回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会資料3(2020(令和2)年10月2日)「ワクチンの有効性・安全性と副反応のとらえ方について」の中に、(参考)平時に疾病等を発症する頻度(いわゆる「ベースライン」)について、以下の記載がある。

 ①65歳以上の高齢者の救急搬送件数は年353.9万件(平成30年 救急・救助の現況)。高齢者人口3,588万人、年間で10人に1人が搬送されている→毎日3,650人に1人が搬送されている計算。3,650人がワクチン接種をしたら、うち1人はワクチン接種とは関係ない理由で24時間以内に救急搬送されることに相当。仮に健康状況にかかわらずワクチン接種をした場合(※) 、単純計算では、3,650万人が接種したら、24時間以内の救急搬送が10,000件生じることになる。②65歳以上の死亡数 約123万人(平成30年人口動態調査より)年間で29人に1人が死亡、毎日約10,000人に1人が死亡している計算になる。仮に健康状況にかかわらずワクチン接種をした場合(※)、単純計算では、約3,600万人が接種したら、24時間以内の死亡が3,600件生じることになる。③新型インフルエンザの予防接種では高齢者の接種後の死亡例が多数報告されたが、個々の症例の評価の結果において、死亡とワクチン接種との直接の明確な関連が認められた症例は認められていない。※実際には接種時には健康状況等を確認するため、こうした単純計算がそのまま当てはまるものではない。

 既知である事象の年間の発生確率を用い、新事象の発生数を推定・推測し、新事象の発生数の高い・低いを決める方法である。諸条件が同じならば、これは新事象の是非・可否については如何にも科学的な根拠に見える。人間の意思決定環境には、①確実性下の意思決定(選択肢を選んだことによる結果が確実に決まってくるような状況での意思決定)、②狭義のリスク下の意思決定(選択肢を採択したことによる結果が既知の確率で生じる状況)、③不確実性下の意思決定(選択肢を採択したことによる結果の確率が既知でない場合の意思決定)があり、この資料は②の意思決定環境に基づいた推論といえる。今回の新型コロナウィルスは全くの新種で従来の経験則や経験値が当てはまらないとすれば、③の意思決定環境に基づいた対応を講ずるべきであったと言える。この意思決定環境の選択の間違いがその後の政府の新型コロナに対する危機管理の失敗に繋がっていったと言っても過言ではない。

 現在の世界は国の指導者には高度な危機管理能力が要求されている。しかしながら、危機管理の基本となる、リスクの認知的基盤(反応モードによる非一貫性、フレミング効果による非一貫性、焦点化仮説と判断の非一貫性、焦点化と信頼の形成)、3つの意思決定環境、人間の行動特性、等を理解・実践している指導者は現在の日本には皆無であり、大きな問題である。

日本の課題は”分配”にあらず

 岸田新内閣が成長と分配の好循環を唱えて誕生した。岸田総理大臣は先月、自民党総裁選挙に向けて経済政策を発表した際「富む者と富まざる者の格差が生まれ、コロナ禍でさらに広がってしまった。最大のポイントは、一部の人間だけでなく、広く多くの人の所得を引き上げることだ」と述べたが、これは的を得ているのだろうか?確かに耳障りが良く、国民も何となく感覚的にフィットするため、誰も真偽の程を確かめない。選挙戦における各党のアベノミクス批判はそれ自体に対する客観的・学問的な批判ではなく、ただの安倍前総理批判になっている感が否めない。恐ろしいのは、多くのメディアはしっかり本質を確かめ伝える努力もしないで、視聴率に踊らされ世の中を煽っている。

 このような状況下、2012年10月21日TV東京のモーニングサテライトの番組内で、クレディ・アグリコル証券の森田京平氏が「日本の課題は”分配”にあらず」という題で論評し、見ごたえがあった。中間層の分配率は他国に比べむしろ良い方であり、データ解析から見て「分配」が課題ではなく、潜在的成長率が低く、企業も売り上げ・営業利益も低下しており、これらの改善が課題と指摘している。

 選挙戦では、国民は何となく耳障りの良い公約になびいてしまうが、本質を見分け投票することが必要であるし、また、メディアも大衆迎合的な報道は慎み、物事の本質を国民に伝える姿勢が望まれる。この点では、TV東京のモーニングサテライトの淡々と「課題」を学問的かつ専門的に分析し報道している姿勢に好感が持てるし、報道のあるべき姿の一例と思われる。

「災害級の医療非常事態」というなら、医療は「感染対策から災害対策への転換」を実践すべき。

 小池百合子東京都知事は8月20日の記者会見で「現在、コロナとのたたかいの真っただ中であり、最大の危機を迎えている。都にとっても今以上に重要な時期はなく、まさに災害級で、医療非常事態だ」「都として死者や重症者を出さないことを最優先に考えて、医療提供体制の課題解決を進めてきた。今、このような状況にあって、医療非常事態対応体制で、都庁の総力をあげて、全庁一体となって取り組んでいく」と述べたという。この考え方自体が、災害の観点からすると正しいとは言えない。災害時には平常時と異なる概念が必要である。分かり易い例を挙げれば、災害時、例えば大地震の時にオリンピック・パラリンピックを開催することはあり得ない。災害級と口で言っているだけで、災害対応をしている訳ではない。

 「災害時の医療」とは、医療需要が医療供給をはるかに上回り医療資源が著しく制限された状況下の医療である。平常時の医療は患者個人にとっても医療継続も含めた全体にとっても最良であることを期待されているが、災害時の医療は患者個人に対する最良と医療継続は必ずしも併存しない。災害時には患者の選択は重症度に軸足を置いた選択ではなく、医療資源に軸足を置いた選択が行われ、結果として「ある傷病者たちが他の状況下では生存し得たかもしれないにもかかわらず、より多くのその他の傷病者の利益のために犠牲になること」を許容していることになり、「医は平等に提供されるべき」という医学的倫理観から逸脱しているような状況に陥る。そのため、日本医師会の患者の権利に関するリスボン宣言の中に「供給を限られた特定の治療に関して、それを必要とする患者間で選定を行わなければならない場合は、そのような患者はすべて治療を受けるための公平な選択手続きを受ける権利がある。その選択は、医学的基準に基づき、かつ差別なく行われなければならない。」という一節がある。患者の選択の公平性と言っても簡単ではなく、多くの学会でもこのような事態の患者選択に関しては普遍的見解を示していない。

米国では8月5日当ブログで紹介したように、crisis standard of care(危機管理基準)と呼ばれる「突然の災害や住民の健康危機の時に何万人あるいは何十万人と発生する多数の犠牲者に対して可能な最良の医療を提供する」ためのフレームワークが存在する。その適応指針として、①広範囲にわたる災害や壊滅的な災害により、通常の医療水準を満たすことができない場合に適用される、 ②主要な資源の利用可能性を拡大し、臨床現場に与える資源不足の影響を最小限にするという共同の目標を持っている、 ③通常の治療を受ければ助かる患者が亡くなることを認識しながら、可能な限り多くの命を救うことに努める、 ④危機管理基準を実施するには、救命処置を受けるための患者をどのようにトリアージするかなど、限られた資源の配分に関する施設固有の決定が必要となる。この4つの指針の中で、特筆すべきは③であり、「ある傷病者たちが他の状況下では生存し得たかもしれないにもかかわらず、より多くのその他の傷病者の利益のために犠牲になること」を許容していることになる。このことは医学倫理や法大きな問題や課題を残しているが、今回の新型コロナ禍でもcrisis standard of careが論議されている。日本でもこの議論が早急に必要であり、国民に理解を求めることが必要不可欠である。

 災害には「予防」、「準備」、「対応」、「回復」の4つのサイクルがある。今回の新型コロナウィルス禍を災害と考えるなら、都知事の発言の「死者や重症者を出さないこと」は準備に相当するものであり「防災対策」である。しかし、現状は「対応」のサイクルであり、起こった災害を如何に小さくするかの「減災対策」が不可欠な時期である。すなわち、今は「死者や重症者を出さないこと」ではなく、如何に多数の傷病者を救うことかが焦点となり、そのためには患者の医療資源に軸足を置いた選択が迫られている。「減災」対策が必要な時期にいくら「防災」対策を論じても効果はないのは当然である。

 8月22日の横浜市長選挙では小此木氏が落選し、その主な原因は政府の新型コロナウィルス対策への不満とする報道が多い。信頼を失っている政府がいくら「安全、安心」と言っても聞く耳を持つ者は少なくなってしまった現状では、現在の分科会委員を一新し、思い切った方針転換を行うべきである。例えば、国民を一様に同じように扱うのではなく、十分な感染対策を講じた国民や組織には活動を自由にする一方、講じていない国民や組織には制限をする、といった方針も考えるべきであろう。

 新型コロナウィルス禍を災害と考えるなら、感染対策ではなく災害対策を実践すべきことを理解しない限り、政府や行政機関の新型コロナウィルス対策は効果が出るはずがない。

自衛隊員諸君、意見があるなら堂々と言え!自分自身に忖度している体質から脱却し、自衛隊のあるべき論を展開せよ。

 現代ビジネスの「俺たちは便利屋じゃない…!自衛隊員が憤る、ワクチン接種センターの「ヤバすぎる実態」」という記事を読んだ。この記事によれば、「町田氏は総理の言うとおり進めることだけ考える忖度官僚の典型。彼が防波堤にならないから自衛隊は消耗する一方です」(防衛省キャリア)と自衛隊が振り回されている原因の一端として防衛省のワクチン関連業務の一端を担う町田一仁審議官が挙げられている。しかし、私から見て、一番の問題は名前も名乗らず、陰でこそこそ人のせいにしている自衛隊員自体が一番の問題である。発言している自衛隊員自体が自身の出世や名誉のために自分自身を忖度している。情けないの一言に尽きる。意見があるなら名乗り意見を堂々と言いなさい。

 筆者は2020年12月8日のブログにおいて「新型コロナウィルス感染症対策としての自衛隊派遣について考える」と題して、「自衛隊の災害派遣の3原則は、緊急性、公共性、非代替性、である。差し迫った必要性がある、 公共の秩序を維持するため人命又は財産を 社会的に保護しなければならない必要性がある、という2点においては十分原則を満たしていると言える。しかし、 部隊が派遣される以外に他の適切な手段がない、ということを満たしているとは必ずしも言い難い。医療行政の将来展望の甘さが招いた事態ともいえるからである。」とう本質的な問題を指摘した。戦傷医療が究極の目的である自衛隊医官としてというよりも自衛隊自体の本来の在り方が問われるべきであった。

 私は防衛省幹部、もちろん自衛隊医官も含まれるが、その方々と「第一線救護衛生科隊員」の設立に中心的に携わってきた。その経験から彼らは常に他力本願的であり、会議中であろうと上官には意見を言えず、ただただ、出席しているだけであった。つまり、自分たちの方向性を決める時でさえ、意見を言える者はいなかったのである。当時からこの問題、すなわち、自分に忖度している体質、を指摘してきたが、未だの体質は変わらない。現代ビジネスの記事のまとめに「精神論を繰り返す指導者と、付和雷同する幹部、従わされる末端の「兵士」たち。76年前の夏から、この国は進歩していない」と如何にも兵士が可愛そうとの印象を受ける一文があるが、幹部や兵士自体が自身に忖度している状況から脱却する意思のない自衛隊の存在が最も悲惨である。

「重症リスクの高い人以外は自宅療養」と医療職以外の人間が何の根拠も示さず、簡単に決めて良いのか?はなはだ疑問が残る。

 2021年8月2日菅総理は「重症リスクの高い人以外は自宅療法体制整備へ」という方針を決定し、「菅総理大臣は、3日にも、医師会や病院関係者に協力を要請するとして「感染者数が急増する中で、医療提供体制を機能させることが最大の課題であり、自治体と連携しながら、政府として全力を尽くす」と強調しました。」との報道があった。この背景には医療が逼迫したため、限りある医療資源を有効活用しようとするトリアージの概念が根底にあると推測される。これの概念を適応する状態であるか否かの判断の根拠も示さず、迂闊に実行してはならない。さらに「8月5日田村厚労大臣は新型コロナ対策分科会尾身会長には事前の相談もしなかったと言っている。」ということであれば、学識経験者の意見の聞かず、トリアージを実行しようとしており、恐ろしい事態である。

 米国では、crisis standard of care(危機管理基準)と呼ばれる「突然の災害や住民の健康危機の時に何万人あるいは何十万人と発生する多数の犠牲者に対して可能な最良の医療を提供する」ためのフレームワークが存在する。その適応指針として、①広範囲にわたる災害や壊滅的な災害により、通常の医療水準を満たすことができない場合に適用される、 ②主要な資源の利用可能性を拡大し、臨床現場に与える資源不足の影響を最小限にするという共同の目標を持っている、 ③通常の治療を受ければ助かる患者が亡くなることを認識しながら、可能な限り多くの命を救うことに努める、 ④危機管理基準を実施するには、救命処置を受けるための患者をどのようにトリアージするかなど、限られた資源の配分に関する施設固有の決定が必要となる。この4つの指針の中で、特筆すべきは③であり、「ある傷病者たちが他の状況下では生存し得たかもしれないにもかかわらず、より多くのその他の傷病者の利益のために犠牲になること」を許容していることになる。このことは医学倫理や法大きな問題や課題を残している。

 日本医師会の患者の権利に関するリスボン宣言では「供給を限られた特定の治療に関して、それを必要とする患者間で選定を行わなければならない場合は、そのような患者はすべて治療を受けるための公平な選択手続きを受ける権利がある。その選択は、医学的基準に基づき、かつ差別なく行われなければならない。」と指摘している。また、災害時の倫理(高橋隆雄監訳:頸草書房 東京)には、「災害が起こり、助けられる人すべてを救うのに十分な資源がない場合は、何が起るだろうか。SGNW(save general number who:〇〇という人を助ける)に従って行動することは道徳的に正当化されるだろうか。答えは否である。(中略)道徳的な問題は生と死に関する裁量を事前であれ事後であれ市民には透明ではない方法で個人の手に与えていることである。」と記載されている。以上の2つから、医療資源の著しい制限下でも、全ての患者は治療を受けるための公平な選択手続きを受ける権利があり、さらに、ある特定の人だけを助けるという選択は市民に透明でなければ成り立たない。

 今回の方針は単純に多くの感染患者が困るという問題だけではなく、医学倫理、患者の権利も十分理解や吟味されておらず、医療を受ける側に大きな問題を残している。

 さらに、医療を提供する側からは、倫理的な側面だけではなく、医療法上からも大きな問題を抱えている。厚労省の新型コロナ感染症診療の手引き第2版によれば、重症度は次のように分類されている。

 重症度分類は票では綺麗に分類されているが、そう簡単ではない。現代の医療は軽症者の重症化を防ぐ、あるいは、一見軽症な重症患者を見分けていくことが求められ、「重症化リスクの高い人」を判別することが難しいこともしばしばである。そのため、実際の医療現場では、軽症、かつ、重症化リスクが低いと判断されても急変することがあるため、疑わしきは入院観察というう方向性が求められているし、これを怠れば医療訴訟に発展する時代である。

 また、医療過誤とは言えないまでも患者の期待権が尊重される時代である。期待権とは「・・患者としては、死亡の結果は免れないとしても、現代医学の水準に照らして十分な治療を受けて死にたいと望むのが当然であり、医師の怠慢、過誤によりこの希望が裏切られ、適切な治療を受けずに死に至った場合は甚大な精神的苦痛を被るであろうことは想像に難くない。・・」というものである。すなわち、「十分な患者管理のもとに診察・診療行為さえなされていれば,ある結果も生じなかったかもしれないという蓋然性がある以上,十分な患者管理のもとに診察・治療をしてもらえるものと期待していた患者にとってみれば,その期待を裏切られたことにより予期せぬ結果が生じたのではないか」という観点から見れば、「重症化リスクの高い人意外は自宅待機」と簡単に言えるものではない。

 法律的な問題も議論されず、一方的に医師に責任を押し付けている今回の方針は医療職からしても大きな問題を抱えている。

 このように、倫理的な問題・課題だけではなく、法律的な問題・課題が重積している今回の方針であるが、総理に指導力や管理能力がないだけではなく、政府・与党内だけではなく野党にも学術的戦略のブレーンが欠如していることが新型コロナ感染症対策のダッジロールの主な原因である。