小児に対する「ワクチンの発症予防効果」をどう判断するか?この記事で小児ワクチン接種は進むのであろうか?

 「米製薬大手ファイザー(Pfizer)は22日、同社が開発した新型コロナウイルスワクチンの5~11歳を対象とした臨床試験(治験)で、90.7%の発症予防効果が示されたと発表した。」という報道があった。「90.7%の発症予防効果」を親御さん達はどう判断し、親として小児ワクチン接種の有無・是非を決定するのだろうか?

 経済行動学から見た人間の意思決定の癖の一つとして「確実性効果と損失回避から成り立つプロスペクト理論」というものがある。客観的確率と主観的確率の間には乖離があって、比較的高い確率のものを主観的にはより低く感じ、比較的低い確率のものをより高く感じてしまう。確率を認識した上で不確実性が伴う意識決定をする際には、確実なものとわずかに不確実なものでは確実なものを好む。また、利得を生じた場合の価値の増え方と損失が生じた場合の価値の減り方は後者の方が大きい。利得と損失の関係を示す曲線が自身の参考点(原点)の右と左で異なり、損失の曲線の傾きが大きいので、損失の場合は少しの損失でも大きく価値を失うことを意味し、損失回避とは利得よりも損失を大きく嫌う。例として千円拾った時と千円落とした時の嬉しさと悲しみを図に描いた。

 

 ワクチンの小児接種について①「ワクチン接種によって100人中90人が新型コロナウィルス感染症に罹患しない」という利得の面に注目させるとワクチン接種を受ける選択肢が高く評価される。しかし、②「ワクチン接種しても100人中10人は新型コロナウィルス感染症に罹患する」という損失の面に注目させるとワクチン接種を受けない選択肢が高くなる。意思決定の際には、注目する面を利益の側に設定するか、損失の側にするか、は非常に大きな影響を及ぼしている(フレーミング効果)。注目する面を利益の側にある場合の選択は「確実性効果(ワクチン接種で90%が罹患しない)」が現れ、損失の側にある場合の選択は「ギャンブル的認知バイアス(ワクチン非接種でも罹患しない可能性が10%もある)」が出る。

 さらに個人では迷うから皆で相談するとどうなるのであろうか?「集団意思決定のリスキーシフト」と呼ばれる現象、つまり、「ほとんどのジレンマ状況では集団で決める方がリスクの高い側に寄る」、が起こる。 この現象は会議でもよく経験することであり、最初は「大丈夫かなあ?」と危ぶんでいても、「声の大きい、威勢のいい発言」に引きずられ、終わってみたらリスクの高い結論に達していたということは日頃からよく経験する。

 このように経済行動学から見た人間の意思決定の特性は非常によく研究されており、我々の通常の消費活動なども操られている面が多々ある。主催者がワクチン接種を推進したいなら利益面に注目するように仕向け、主催者がワクチン接種を進めたくないなら損失面に注目されるよう仕向けられている。 ワクチン賛否議論も、主催者側の賛成・反対の主旨が達成できるように仕組まれていることを念頭に置き、ワクチン賛否議論を見ていく必要がある。

 第17回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会資料3(2020(令和2)年10月2日)「ワクチンの有効性・安全性と副反応のとらえ方について」の中に、(参考)平時に疾病等を発症する頻度(いわゆる「ベースライン」)について、以下の記載がある。

 ①65歳以上の高齢者の救急搬送件数は年353.9万件(平成30年 救急・救助の現況)。高齢者人口3,588万人、年間で10人に1人が搬送されている→毎日3,650人に1人が搬送されている計算。3,650人がワクチン接種をしたら、うち1人はワクチン接種とは関係ない理由で24時間以内に救急搬送されることに相当。仮に健康状況にかかわらずワクチン接種をした場合(※) 、単純計算では、3,650万人が接種したら、24時間以内の救急搬送が10,000件生じることになる。②65歳以上の死亡数 約123万人(平成30年人口動態調査より)年間で29人に1人が死亡、毎日約10,000人に1人が死亡している計算になる。仮に健康状況にかかわらずワクチン接種をした場合(※)、単純計算では、約3,600万人が接種したら、24時間以内の死亡が3,600件生じることになる。③新型インフルエンザの予防接種では高齢者の接種後の死亡例が多数報告されたが、個々の症例の評価の結果において、死亡とワクチン接種との直接の明確な関連が認められた症例は認められていない。※実際には接種時には健康状況等を確認するため、こうした単純計算がそのまま当てはまるものではない。

 既知である事象の年間の発生確率を用い、新事象の発生数を推定・推測し、新事象の発生数の高い・低いを決める方法である。諸条件が同じならば、これは新事象の是非・可否については如何にも科学的な根拠に見える。人間の意思決定環境には、①確実性下の意思決定(選択肢を選んだことによる結果が確実に決まってくるような状況での意思決定)、②狭義のリスク下の意思決定(選択肢を採択したことによる結果が既知の確率で生じる状況)、③不確実性下の意思決定(選択肢を採択したことによる結果の確率が既知でない場合の意思決定)があり、この資料は②の意思決定環境に基づいた推論といえる。今回の新型コロナウィルスは全くの新種で従来の経験則や経験値が当てはまらないとすれば、③の意思決定環境に基づいた対応を講ずるべきであったと言える。この意思決定環境の選択の間違いがその後の政府の新型コロナに対する危機管理の失敗に繋がっていったと言っても過言ではない。

 現在の世界は国の指導者には高度な危機管理能力が要求されている。しかしながら、危機管理の基本となる、リスクの認知的基盤(反応モードによる非一貫性、フレミング効果による非一貫性、焦点化仮説と判断の非一貫性、焦点化と信頼の形成)、3つの意思決定環境、人間の行動特性、等を理解・実践している指導者は現在の日本には皆無であり、大きな問題である。

日本の課題は”分配”にあらず

 岸田新内閣が成長と分配の好循環を唱えて誕生した。岸田総理大臣は先月、自民党総裁選挙に向けて経済政策を発表した際「富む者と富まざる者の格差が生まれ、コロナ禍でさらに広がってしまった。最大のポイントは、一部の人間だけでなく、広く多くの人の所得を引き上げることだ」と述べたが、これは的を得ているのだろうか?確かに耳障りが良く、国民も何となく感覚的にフィットするため、誰も真偽の程を確かめない。選挙戦における各党のアベノミクス批判はそれ自体に対する客観的・学問的な批判ではなく、ただの安倍前総理批判になっている感が否めない。恐ろしいのは、多くのメディアはしっかり本質を確かめ伝える努力もしないで、視聴率に踊らされ世の中を煽っている。

 このような状況下、2012年10月21日TV東京のモーニングサテライトの番組内で、クレディ・アグリコル証券の森田京平氏が「日本の課題は”分配”にあらず」という題で論評し、見ごたえがあった。中間層の分配率は他国に比べむしろ良い方であり、データ解析から見て「分配」が課題ではなく、潜在的成長率が低く、企業も売り上げ・営業利益も低下しており、これらの改善が課題と指摘している。

 選挙戦では、国民は何となく耳障りの良い公約になびいてしまうが、本質を見分け投票することが必要であるし、また、メディアも大衆迎合的な報道は慎み、物事の本質を国民に伝える姿勢が望まれる。この点では、TV東京のモーニングサテライトの淡々と「課題」を学問的かつ専門的に分析し報道している姿勢に好感が持てるし、報道のあるべき姿の一例と思われる。

「災害級の医療非常事態」というなら、医療は「感染対策から災害対策への転換」を実践すべき。

 小池百合子東京都知事は8月20日の記者会見で「現在、コロナとのたたかいの真っただ中であり、最大の危機を迎えている。都にとっても今以上に重要な時期はなく、まさに災害級で、医療非常事態だ」「都として死者や重症者を出さないことを最優先に考えて、医療提供体制の課題解決を進めてきた。今、このような状況にあって、医療非常事態対応体制で、都庁の総力をあげて、全庁一体となって取り組んでいく」と述べたという。この考え方自体が、災害の観点からすると正しいとは言えない。災害時には平常時と異なる概念が必要である。分かり易い例を挙げれば、災害時、例えば大地震の時にオリンピック・パラリンピックを開催することはあり得ない。災害級と口で言っているだけで、災害対応をしている訳ではない。

 「災害時の医療」とは、医療需要が医療供給をはるかに上回り医療資源が著しく制限された状況下の医療である。平常時の医療は患者個人にとっても医療継続も含めた全体にとっても最良であることを期待されているが、災害時の医療は患者個人に対する最良と医療継続は必ずしも併存しない。災害時には患者の選択は重症度に軸足を置いた選択ではなく、医療資源に軸足を置いた選択が行われ、結果として「ある傷病者たちが他の状況下では生存し得たかもしれないにもかかわらず、より多くのその他の傷病者の利益のために犠牲になること」を許容していることになり、「医は平等に提供されるべき」という医学的倫理観から逸脱しているような状況に陥る。そのため、日本医師会の患者の権利に関するリスボン宣言の中に「供給を限られた特定の治療に関して、それを必要とする患者間で選定を行わなければならない場合は、そのような患者はすべて治療を受けるための公平な選択手続きを受ける権利がある。その選択は、医学的基準に基づき、かつ差別なく行われなければならない。」という一節がある。患者の選択の公平性と言っても簡単ではなく、多くの学会でもこのような事態の患者選択に関しては普遍的見解を示していない。

米国では8月5日当ブログで紹介したように、crisis standard of care(危機管理基準)と呼ばれる「突然の災害や住民の健康危機の時に何万人あるいは何十万人と発生する多数の犠牲者に対して可能な最良の医療を提供する」ためのフレームワークが存在する。その適応指針として、①広範囲にわたる災害や壊滅的な災害により、通常の医療水準を満たすことができない場合に適用される、 ②主要な資源の利用可能性を拡大し、臨床現場に与える資源不足の影響を最小限にするという共同の目標を持っている、 ③通常の治療を受ければ助かる患者が亡くなることを認識しながら、可能な限り多くの命を救うことに努める、 ④危機管理基準を実施するには、救命処置を受けるための患者をどのようにトリアージするかなど、限られた資源の配分に関する施設固有の決定が必要となる。この4つの指針の中で、特筆すべきは③であり、「ある傷病者たちが他の状況下では生存し得たかもしれないにもかかわらず、より多くのその他の傷病者の利益のために犠牲になること」を許容していることになる。このことは医学倫理や法大きな問題や課題を残しているが、今回の新型コロナ禍でもcrisis standard of careが論議されている。日本でもこの議論が早急に必要であり、国民に理解を求めることが必要不可欠である。

 災害には「予防」、「準備」、「対応」、「回復」の4つのサイクルがある。今回の新型コロナウィルス禍を災害と考えるなら、都知事の発言の「死者や重症者を出さないこと」は準備に相当するものであり「防災対策」である。しかし、現状は「対応」のサイクルであり、起こった災害を如何に小さくするかの「減災対策」が不可欠な時期である。すなわち、今は「死者や重症者を出さないこと」ではなく、如何に多数の傷病者を救うことかが焦点となり、そのためには患者の医療資源に軸足を置いた選択が迫られている。「減災」対策が必要な時期にいくら「防災」対策を論じても効果はないのは当然である。

 8月22日の横浜市長選挙では小此木氏が落選し、その主な原因は政府の新型コロナウィルス対策への不満とする報道が多い。信頼を失っている政府がいくら「安全、安心」と言っても聞く耳を持つ者は少なくなってしまった現状では、現在の分科会委員を一新し、思い切った方針転換を行うべきである。例えば、国民を一様に同じように扱うのではなく、十分な感染対策を講じた国民や組織には活動を自由にする一方、講じていない国民や組織には制限をする、といった方針も考えるべきであろう。

 新型コロナウィルス禍を災害と考えるなら、感染対策ではなく災害対策を実践すべきことを理解しない限り、政府や行政機関の新型コロナウィルス対策は効果が出るはずがない。

自衛隊員諸君、意見があるなら堂々と言え!自分自身に忖度している体質から脱却し、自衛隊のあるべき論を展開せよ。

 現代ビジネスの「俺たちは便利屋じゃない…!自衛隊員が憤る、ワクチン接種センターの「ヤバすぎる実態」」という記事を読んだ。この記事によれば、「町田氏は総理の言うとおり進めることだけ考える忖度官僚の典型。彼が防波堤にならないから自衛隊は消耗する一方です」(防衛省キャリア)と自衛隊が振り回されている原因の一端として防衛省のワクチン関連業務の一端を担う町田一仁審議官が挙げられている。しかし、私から見て、一番の問題は名前も名乗らず、陰でこそこそ人のせいにしている自衛隊員自体が一番の問題である。発言している自衛隊員自体が自身の出世や名誉のために自分自身を忖度している。情けないの一言に尽きる。意見があるなら名乗り意見を堂々と言いなさい。

 筆者は2020年12月8日のブログにおいて「新型コロナウィルス感染症対策としての自衛隊派遣について考える」と題して、「自衛隊の災害派遣の3原則は、緊急性、公共性、非代替性、である。差し迫った必要性がある、 公共の秩序を維持するため人命又は財産を 社会的に保護しなければならない必要性がある、という2点においては十分原則を満たしていると言える。しかし、 部隊が派遣される以外に他の適切な手段がない、ということを満たしているとは必ずしも言い難い。医療行政の将来展望の甘さが招いた事態ともいえるからである。」とう本質的な問題を指摘した。戦傷医療が究極の目的である自衛隊医官としてというよりも自衛隊自体の本来の在り方が問われるべきであった。

 私は防衛省幹部、もちろん自衛隊医官も含まれるが、その方々と「第一線救護衛生科隊員」の設立に中心的に携わってきた。その経験から彼らは常に他力本願的であり、会議中であろうと上官には意見を言えず、ただただ、出席しているだけであった。つまり、自分たちの方向性を決める時でさえ、意見を言える者はいなかったのである。当時からこの問題、すなわち、自分に忖度している体質、を指摘してきたが、未だの体質は変わらない。現代ビジネスの記事のまとめに「精神論を繰り返す指導者と、付和雷同する幹部、従わされる末端の「兵士」たち。76年前の夏から、この国は進歩していない」と如何にも兵士が可愛そうとの印象を受ける一文があるが、幹部や兵士自体が自身に忖度している状況から脱却する意思のない自衛隊の存在が最も悲惨である。

「重症リスクの高い人以外は自宅療養」と医療職以外の人間が何の根拠も示さず、簡単に決めて良いのか?はなはだ疑問が残る。

 2021年8月2日菅総理は「重症リスクの高い人以外は自宅療法体制整備へ」という方針を決定し、「菅総理大臣は、3日にも、医師会や病院関係者に協力を要請するとして「感染者数が急増する中で、医療提供体制を機能させることが最大の課題であり、自治体と連携しながら、政府として全力を尽くす」と強調しました。」との報道があった。この背景には医療が逼迫したため、限りある医療資源を有効活用しようとするトリアージの概念が根底にあると推測される。これの概念を適応する状態であるか否かの判断の根拠も示さず、迂闊に実行してはならない。さらに「8月5日田村厚労大臣は新型コロナ対策分科会尾身会長には事前の相談もしなかったと言っている。」ということであれば、学識経験者の意見の聞かず、トリアージを実行しようとしており、恐ろしい事態である。

 米国では、crisis standard of care(危機管理基準)と呼ばれる「突然の災害や住民の健康危機の時に何万人あるいは何十万人と発生する多数の犠牲者に対して可能な最良の医療を提供する」ためのフレームワークが存在する。その適応指針として、①広範囲にわたる災害や壊滅的な災害により、通常の医療水準を満たすことができない場合に適用される、 ②主要な資源の利用可能性を拡大し、臨床現場に与える資源不足の影響を最小限にするという共同の目標を持っている、 ③通常の治療を受ければ助かる患者が亡くなることを認識しながら、可能な限り多くの命を救うことに努める、 ④危機管理基準を実施するには、救命処置を受けるための患者をどのようにトリアージするかなど、限られた資源の配分に関する施設固有の決定が必要となる。この4つの指針の中で、特筆すべきは③であり、「ある傷病者たちが他の状況下では生存し得たかもしれないにもかかわらず、より多くのその他の傷病者の利益のために犠牲になること」を許容していることになる。このことは医学倫理や法大きな問題や課題を残している。

 日本医師会の患者の権利に関するリスボン宣言では「供給を限られた特定の治療に関して、それを必要とする患者間で選定を行わなければならない場合は、そのような患者はすべて治療を受けるための公平な選択手続きを受ける権利がある。その選択は、医学的基準に基づき、かつ差別なく行われなければならない。」と指摘している。また、災害時の倫理(高橋隆雄監訳:頸草書房 東京)には、「災害が起こり、助けられる人すべてを救うのに十分な資源がない場合は、何が起るだろうか。SGNW(save general number who:〇〇という人を助ける)に従って行動することは道徳的に正当化されるだろうか。答えは否である。(中略)道徳的な問題は生と死に関する裁量を事前であれ事後であれ市民には透明ではない方法で個人の手に与えていることである。」と記載されている。以上の2つから、医療資源の著しい制限下でも、全ての患者は治療を受けるための公平な選択手続きを受ける権利があり、さらに、ある特定の人だけを助けるという選択は市民に透明でなければ成り立たない。

 今回の方針は単純に多くの感染患者が困るという問題だけではなく、医学倫理、患者の権利も十分理解や吟味されておらず、医療を受ける側に大きな問題を残している。

 さらに、医療を提供する側からは、倫理的な側面だけではなく、医療法上からも大きな問題を抱えている。厚労省の新型コロナ感染症診療の手引き第2版によれば、重症度は次のように分類されている。

 重症度分類は票では綺麗に分類されているが、そう簡単ではない。現代の医療は軽症者の重症化を防ぐ、あるいは、一見軽症な重症患者を見分けていくことが求められ、「重症化リスクの高い人」を判別することが難しいこともしばしばである。そのため、実際の医療現場では、軽症、かつ、重症化リスクが低いと判断されても急変することがあるため、疑わしきは入院観察というう方向性が求められているし、これを怠れば医療訴訟に発展する時代である。

 また、医療過誤とは言えないまでも患者の期待権が尊重される時代である。期待権とは「・・患者としては、死亡の結果は免れないとしても、現代医学の水準に照らして十分な治療を受けて死にたいと望むのが当然であり、医師の怠慢、過誤によりこの希望が裏切られ、適切な治療を受けずに死に至った場合は甚大な精神的苦痛を被るであろうことは想像に難くない。・・」というものである。すなわち、「十分な患者管理のもとに診察・診療行為さえなされていれば,ある結果も生じなかったかもしれないという蓋然性がある以上,十分な患者管理のもとに診察・治療をしてもらえるものと期待していた患者にとってみれば,その期待を裏切られたことにより予期せぬ結果が生じたのではないか」という観点から見れば、「重症化リスクの高い人意外は自宅待機」と簡単に言えるものではない。

 法律的な問題も議論されず、一方的に医師に責任を押し付けている今回の方針は医療職からしても大きな問題を抱えている。

 このように、倫理的な問題・課題だけではなく、法律的な問題・課題が重積している今回の方針であるが、総理に指導力や管理能力がないだけではなく、政府・与党内だけではなく野党にも学術的戦略のブレーンが欠如していることが新型コロナ感染症対策のダッジロールの主な原因である。

説明責任を果たしもしないで、上から目線で居酒屋を虐めている

 またまた、緊急事態宣言発令である。しかし、やはり、その根拠は全く示されなかった。緊急事態から蔓延防止に変更した途端、感染者が増加したのは何故なのか科学的な説明がなされていない。蔓延防止の時と緊急事態の時の何が違うから感染者が増えたのか?本当に居酒屋が感染増加の元凶なのか?等等、全く説明ない。「安全安心のため」「国民のため」と壊れたレコーダーのように繰り返しているだけの総理、上から目線で金融機関経由で居酒屋を兵糧攻めにする大臣、高齢者や感染者の多い青壮年層のワクチン接種も十分でない時期にあえて12歳から17歳のワクチン接種を予定する区、等々、新型コロナ・ワクチン協奏曲とも言うべき状況で、「やってる感」を出すために、奔走しているとしか思えない。

 戦略なき戦術は負け戦に繋がるのは周知である。しかし、新型コロナ対応には根幹となる戦略が乏しく、思い付きとしか思えない場当たり的な戦術で戦っている。オリンピック開催にしても、その開催目的をお涙頂戴、根性論、感動、という感情論でしか表現できない人に戦略を描けるはずはなく、オリンピック開催が新型コロナに打ち勝った証になろうはずがない。オリンピック後の不況を如何なる戦略でどう乗り切っていくかを自分自身のみの力と英知に頼らざるを得ないお寒い・虚しい現状の日本である。

「陛下は五輪開催を懸念と拝察」という報道から日本の国家元首は誰?と考えた。

宮内庁の西村泰彦長官「陛下は五輪開催を懸念と拝察」の発言は非常に重い。菅総理に陛下のお言葉は届くのであろうか?

 国家元首というのは外国に対して国を代表する人を指すので、英国の国家元首はエリザベス女王である。日本国憲法には国家元首の規定がないので、今の日本の国家元首は誰?と聞かれたら明文規定はない。天皇は、「国民の象徴」で日本を代表する人であるから元首である、と考える人もいれば、政治のトップこそが国家の代表なので総理大臣である、との考える人もいる。天皇が日本の国家元首であるかどうかは、専門家に任せるとしよう。しかし、自国の国家元首から派遣された大使は、「この者を大使として認めてください」という信任状を相手国の国家元首に提出する慣習があり、日本に来た大使はそれを天皇に提出するので、海外は、天皇を日本の国家元首とみている。この視点から鑑みると、オリンピックは世界的な行事だから、諸外国から見た場合、今回の陛下の発言は、日本の国家元首の発言と映る。

「勝つまでは欲しがりません」と国民を洗脳・扇動し軍部の暴走と同調し太平洋戦争に突入した内閣と「居酒屋の自粛を初めてとした国民への自粛強制」「自分と価値観を共有しない人の排除」「聞く耳を持たない」内閣の違いはどこにあるのだろうか。恐らく昭和天皇も国家元首として戦争を危惧されたと思われるが、これを無視し戦争突入となったと推測すれば、令和天皇発言を無視してオリンピック開催に突入する状況と変わらないのではないのか?「根拠や具体的対応のない安全安心』と「勝利の方程式のない戦争による国家繁栄」は根底に潜む思考が同じに見える。今回の陛下の発言は、真に国民の安全安心を危惧されての発言と察する。総理の言う安心安全はあくまでオリンピック参加選手・関係者であって、国民ではない。このことからして、やはり日本の国家元首は菅総理ではなく、陛下と改めて思った次第である。

 オリンピックが開催されれば金メダルラッシュで日本中が湧くだろうという思考過程は、太平洋戦争初期に勝利に湧いて提灯行列した時代を彷彿させる。結果は悲惨な戦後を向かえただけであったということを国民は熟知しており、政府が考えているような馬鹿ではない。陛下の言葉は届かない時代錯誤も甚だしい総理に日本の舵取りを任せざるを得ない現在の日本は最大の危機を迎えている。

非常時だからこそ何でもかんでも許されるのではなく、法に準拠することが必要である。

 またまた、菅政権は暴挙と言わざることを訴え始めた。救急救命士や臨床検査技師にワクチン接種を行わせるというのだ。歯科医師のワクチン接種同様、あり得ない話である。救急救命士や臨床検査技師は本来業務のプロではあるが、臨床現場で患者に筋肉注射自体を行ったことはないし、また、それにまつわる副作用は勿論専門医学教育も受けたことはない。しかも救急救命士の特定行為は未だに「医療行為に当たるか、否か」議論のあるところである。この方々にワクチン接種を受ける国民の命をあまりに軽く見ているとしか思えない。

 そもそも、ワクチン接種の著しい遅延は、菅政権のあまりに場当たり的な稚拙な運営に原因がある。最近のちぐはぐな動向を見るにつけ、今回のワクチン接種を急ぐ背景には国民の命を守るという本来の意味は感じられず、ただただ東京オリンピック・パラリンピックに間に合わせたいという政治的思惑に過ぎないように思えてならない。

 総理の不始末の処理のために、ねぎ曲がった法解釈でごまかそうと必死の様子がうかがえる。慌てれば慌てるほど、事態は進まず、進まない原因を自分以外に探し、その結果、自分の都合で本来の制度や法をねぎ曲げようとする政府は末期的と言える。

 本質的な問題は、表面的に医療逼迫を訴え裏では政治に明け暮れている医師会長を含め、新型コロナウィルス感染症に関わっていない医師達を如何に活用するか、である。極論すれば、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会尾身会長も医師であるなら国民に不安を招くような発言を繰り返す前に、会議会見に出る時間があれば、ワクチン接種会場に自ら出向き、ワクチン接種に協力すべきであろう。非常事態の今こそ、法の解釈を曲げるのではなく、リーダーの率先垂範が望まれる。

どさくさに紛れて法律が捻じ曲げられていく。緊急事態だからと言って『歯科医』の筋肉注射という医療行為を十分な議論のないまま実施した。

 歯科医によるワクチン接種が始まった。厚生労働省は平成8年に行った「歯科口腔外科に関する検討会」で歯科口腔外科の医療領域について、標榜診療科としての歯科口腔外科の診療領域の対象は、原則として、口唇(頬粘膜、上下歯槽、硬口蓋、舌の前2/3)、口腔底(軟口蓋、顎骨(顎関節を含む)、唾液腺(耳下腺を除く))としていたし、また臨床現場からしても、歯科医師による筋肉内注射は明らかに医師法・歯科医師法に抵触すると思われる。それでは何故このような違法行為が許されたのであろうか?

 令和3年4月26日厚生労働省医政局・厚生労働省歯科保健課・厚生労働省健康局予防接種室が都道府県・市町村・特別区に宛てた『新型コロナウィルス感染症に係るワクチン接種のための筋肉内注射の歯科医師による実施について』の中の『歯科医師によるワクチン接種のための筋肉内注射の実施に係る法的整理について』の通達では次のように記載されている。

 違法性阻却の可否は個別具体的に判断されるものであるが、歯科医師は、その養成課程において、筋肉内注射に関する基本的な教育を受けており、また、口腔外科や歯科麻酔の領域では実際に筋肉内注射を行うことがあることを踏まえると、必要な医師や看護師等が確保できないことを理由に特設会場におけるワクチン接種が実施できないような場合においては、少なくとも下記の条件の下でワクチン接種のための筋肉内注射を歯科医師が行うことは、公衆衛生上の観点からやむを得ないものとして、医師法第 17 条との関係では違法性が阻却され得るものと考えられる。

 この文脈の中で重要な部分は『必要な医師や看護師等が確保できないことを理由に特設会場におけるワクチン接種が実施できないような場合においては』という部分である。すなわち、医師・看護師の獲得にどの程度奔走したのか、本当に歯科医に依存しなければワクチン接種が不可能だったのか?という点であり、医師・看護師の分布の地域格差も含め極めて主観的である。BLSが普及した現在であるが、一般人の心肺蘇生術施行の際にも最初に確認すべきことは『お医者さんいませんよね?』である。つまり、緊急事態だから許される行為であり、医療行為ではない。今回の歯科医による筋肉注射はこれと同様に緊急事態だから、例外だよ、と言っているに過ぎない。この通達では歯科医の筋肉注射は医療行為としてではなく、緊急事態回避のために行う緊急処置であり、一般人のトリアージや心肺蘇生術と同様の扱いとなり、もし過誤が起れば法的には緊急事務管理が適用されるのである。このような解釈をされれば、歯科医師の加入している医療過誤保険の適用は歯科医の生業に関するものであり、生業とは言えない緊急処置には適用されない可能性は十分にあると考えられる。

 今回の4月26日付けの文章は法的な解釈を述べた通達に過ぎず、あくまでこの時点のこの通達を出した人達の解釈であり、これをもって歯科医師による筋肉注射に法的な正当性を担保したものではない。さらに、歯科医師はアナフィラキシーショックやアレルギーに対して生業として医療行為はできないし、また、その訓練や教育も乏しいため、副反応に対してたとえ現場にいたとしても歯科医師としてなすすべがない。緊急事態だからと言って、勝手な法律解釈をし、歯科医師を法的に守るようなしっかりした議論のないまま、既成事実が進んでいることは、本当に恐ろしい時代である。歯科医師は筋肉注射による自らへの実害がでない前に。法律的な運用を行うよう、厚労省や政府に声を挙げるべきである。

中川日本医師会長は医師というより政治家

 日本医師会中川会長が先月20日に都内で開かれてた政治資金パーティに発起人として参加していた問題で某番組にクレームが殺到していた、という報道の中で、その理由として『「番組終了後、スタッフたちがA氏にどうして中川氏を擁護したのか問い正したところ、A氏は日本医師会の会員だと自白。さらに『医師会から学校診療の仕事を回してもらっているので、悪いことは言えない』と。いつもお世話になっているA氏を悪く言えないですが、日本医師会の無言のプレッシャーがあることを実感しましたね」』とコメントが書かれていた。

 今回の中川医師会長の件は当然批判されるべきことである。新型コロナ医療対応を支える医師会長という立場からだけではなく、医師個人としても自ら感染を拡大する行動は控えるべきという医療職としての自覚の面からもあり得ない話である。

 この件は医師会自体の評判を貶め国民の信頼を失うばかりではなく、真剣に現場を支えている医師にとっても大きなマイナスとなる。さらに情けないのは、このような明らかな不祥事に対して、学識経験者として意見を期待されているコメンテーターが正論を言わないことである。日頃正論らしい正論をもっともらしく述べているにも拘わらず、身の保身から正論を言わずに、同じ医師には甘い体質と言わざるを得ない。嘆かわしい一方、そのような輩にコメンテーターを依頼している番組自体もその見識は非常に疑わしい。

 資本主義社会では医師会も一つの職業互助組織団体であるから、政治家資金パーティへの参加の良し悪しは問わない。しかし、それにしても中川医師会長はこの時期に政治家の資金パーティの発起人である必要があったのであろうか?確かに医師会は医師会員全員のための利益を代表しての政治活動は必要であるが、今回の新型コロナ対応では、それ以前に医師の職業理念が優先すべきと思われる。この職業理念の崇高さのおかげで国民から信頼されているのであり、今回の中川医師会長の所業はそれを著しく損なうものであり、今後中川医師会長の発言に耳を固めける国民はなくなることを憂いでいるし、今後の新型コロナ医療対応に支障が出ないよう祈るばかりである。